社会思想史学会のセッション

 社会思想史学会の年次大会で、ほぼ毎回「18・9世紀ドイツの社会経済思想」というセッションを そのつどサブタイトルを付けて催している。

 「セッション」とは世話人がテーマを設定して組織する分科会であり、この場合、大塚雄太さん(愛知学院大学)とぼくが世話人である(当初は故高柳良治先生とぼく)。「ほぼ毎回」というのは 一昨年度申込み締切りが早まったのをうっかり失念して実現できなかったような例外を除いて である。

 先月(10/15・16)専修大学生田キャンパス(川崎市)で開催された第47回大会では、サブタイトルを「ドイツ・ロマン主義の起点と思想構造そして現代的意味」として行なった。

 ドイツ・ロマン主義とりわけその初期を代表する2人の思想家ノヴァーリス(1772~1801年)とフリードリヒ・シュレーゲル(1772~1829年)がともに生誕250周年となる今年、両者の思想をふり返って、ドイツ・ロマン主義の意味を当時・現代にわたって考えるという企画である。

登壇する武田利勝さん

 まず第1報告として、高橋優さん(福島大学)が「ノヴァーリスのコスモポリタニズム」と題して、「個人は国家を仲介者として普遍意志と結びつくことができるがゆえに「世界市民」たり得る」というノヴァーリスの思想を説明した。第2報告は、武田利勝さん(九州大学)がシュレーゲルの「断片」重視の論法について述べた。

 ついでそれへのコメントが20世紀ドイツ文学・演劇を研究する摂津隆信さん(山形大学)によってなされ、会場からも意見が出されて、報告者との間で活発な討論がなされた。

ならんで討論する(向かって左から)武田さん・高橋さん・原田・摂津さん・大塚さん

 ドイツ・ロマン主義が近代的個人主義の社会観であることは間違いないけれど、個人・個別集団の個性や多様性にウェイトを置いたそれである。

 単純な啓蒙主義が行き過ぎると諸個人が同質の粒のような存在として扱われて、逆に支配者(専制君主や、手続き上は正当に選ばれた独裁者、はたまた資本家・企業家など)によって支配されるばかりの位置におとしめられる可能性がある。こうした近代の政治・経済の問題性を――社会主義などとは違った角度から――鋭く摘発したのがロマン主義である。

 ノヴァーリスは「世界市民」としての個人を捉えるとき、すべての人間が無媒介的にいきなり等しい国際人になるのではなく、言語・文化・歴史に由来する個性・国民性を踏まえたうえでのそれでしかありえない と考えた。シュレーゲルは様々な「断片」が絡み合う様態を植物系の繁茂のようにイメージして、平板な統一観を排除していた。これらはロマン主義思想の典型をなす。

 こうしたロマン主義なかでもドイツ・ロマン主義の世界観は、硬直した「民族」統一を主張して強引に武力をもってしてまでそれをなしとげようとする動きのある現在、また社会生活のダイヴァーシティが叫ばれる今日、ふり返る意味があるであろう。このように司会者としてのぼくはまとめあげたが、そうした問題提起をなしえたことに、すでにこのセッションは意味があったと思う。

二十数名の碩学が執筆してくださった共著

 ドイツ・ロマン主義の人文・社会科学両側面の交流はちょうど15年前に伊坂青司さんと編した『ドイツ・ロマン主義研究』(2007年)で試みており、当時このセッションもそれに関するサブテーマで催した。その後の新しい世代である高橋さん・武田さん・摂津さんが今回のセッションで社会思想としてのノヴァーリス、F.シュレーゲルを論じてくださったことは かつての研究の新たな世代での継続と考えることもでき、とても嬉しい。

 ちなみに昨年度このセッションは、斎藤幸平さん(当時大阪市立大学、現東京大学)の『人新世の「資本論」』(2020年)とぼくの『19世紀前半のドイツ経済思想』(2020年)を合わせての合評会であった。評者は前者が太田仁樹さん(岡山大学(名誉))、後者が渡邊碩さん(京都大学(院生))。

 思えばもう20年ほど続けているこのセッション、社会思想史学会でのドイツ思想史研究が20世紀の思想に重きが置かれてきているなかで(もちろん20世紀思想それ自体は重要であるが)、これからも18・9世紀の意味を中堅・若手とベテランとが交流しつつ探究していく場として続けていきたい。皆さんの変わらぬご協力・ご参加を心から呼びかける!

 最後に、大変なオーガナイズ作業にもかかわらず筆者のお願いに応えて上の写真を撮影してくださった板井広明さん(専修大学)に お礼申し上げたい。さらに、新しい代表幹事として多大なご苦労をされて大会に臨まれた後藤浩子さん(法政大学)とスタッフの方々にも心からエールを送りたい。