翻訳 B.シェフォールト「歴史に見る 発展のための経済知の意義」Ⅰ・Ⅱ(原田・若松訳)
ベルトラム・シェフォールトさん(ドイツ・フランクフルト大学)の経済学史研究会第250回記念例会(2019年12月)での報告は、「歴史に見る 発展のための経済知の意義」として若松直幸さんとで翻訳して、昨年、関西学院大学『経済学論究』に掲載された(そのⅠ・そのⅡそれぞれ第74巻第2号・第3号)。この間に抜き刷りも配り、感想などもいただいているので、それへのリプライの意味も込めて少し。
この英語の報告論文が ドイツ語の小冊子を縮約して英訳されたものであるため、説明が不充分になっていることや、英語表現が必ずしも元のドイツ語と一意対応していないこともあって、こなれた日本語訳にするにはいくぶん苦労した。来日中のご本人にそうした箇所について説明を求めたり、またドイツ語版をも参考にして理解を深めて、分かりやすい日本語にするよう心掛けた。
内容としてポイントは2つ。
第1に、充分に理論化されていない「経済知」は小集団内での「内在知」から「開示知」へと進み、それとの関係で「技術知」も解放され、経済的進化とりわけ産業革命や資本蓄積がなされたのであり、またその過程で「経済知」が経済理論へと至るのである。このことは経済思想史を振り返ると分かるのであり、われわれは、確立している既存の経済理論に固執することなく、そうしたプロセスでもってたえず現実の経済と経済学の関係を問うていくべきである。
第2に、「近代」資本主義の形成過程については、カルヴァン主義の倫理が資本蓄積へと誘導したというマックス・ヴェーバーのテーゼがしばしば基準とされる。しかし、その議論では中国などの非キリスト教・儒教文化圏での資本主義の生成の説明が困難である。文化圏を越えて、あるいは複数の諸文化圏を比較しつつ資本主義・資本蓄積の生成を論じるには、利子取得に対する倫理的・社会的・法的な規制と許容がどうであったか、それにともなって資本蓄積がどのように生じたか、をそれぞれの文化圏について解明し比較することは意味がある。
さて、ドイツ・社会政策学会経済学史委員会やヨーロッパ経済思想史学会の会長を歴任し、経済学史の通史を出版してもいるシェフォールトさんがヨーロッパにおける経済学史・経済思想史研究の重鎮であることは、疑いない。わが国ではこれまで中央大学、京都大学、関西学院大学が客員として招聘したことがあるけれど、著書丸ごと日本語訳されたものがないからか、なお知る人ぞ知るという感がある。彼の仕事は多面的であり、長く懇意にしている研究者としては、数理経済学的な側面について有賀祐二さん、マルクス経済学的な側面について八木紀一郎さん、思想史的な側面について原田を挙げることができると思う。
ちなみに、彼の講演・論文でこれまで邦訳されたものとしては、次のものがある。
―「ドイツ歴史学派――倫理観とその進歩への信頼」(塘茂樹訳)、住谷一彦・八木紀一郎編『歴史学派の世界』日本経済評論社、1998年。
―「エトガー・ザリーンと彼の「直観的理論」の構想――戦間期において」(原田哲史訳)、福島大学『商学論集』第75巻第2号、2007年。
―「ブルーノ・ヒルデブラント――自由主義的経済学者の歴史的視角」(池田幸弘訳)、慶應義塾大学編『文明のサイエンス――人文・社会科学と古典的教養』慶應義塾大学出版会、2011年。
―「追悼 小林昇」(原田哲史訳)、服部正治・竹本洋訳『回想 小林昇』日本経済評論社、2011年。
また、彼の編著 B. Schefold (Hrsg.): Wirtschafts- und Sozialwissenschaftler in Frankfurt am Main, 2. Aufl., Marburg 2004 についての原田による書評が、経済学史学会編『経済学史研究』第48巻第2号、2006年にある。