紙のお金の意味

 先月、渋沢栄一(1840~1931年)の肖像の新1万円札が出た。

 佐伯啓思氏は、渋沢が「近代日本の銀行システムを整備し」それでもって「中央銀行と政府の通貨管理能力や金融政策に対する信頼」ができ、金や銀と交換できない紙幣であっても安心してそれでもって経済活動ができるに至った、と述べている(「新1万円札に思う――経済の公的な意義訴えた渋沢栄一」、『中日新聞』2024年8月5日夕刊)。

新1万円札、国立印刷局のサイトから

 どこかで聞いた話だ。アダム・ミュラー(1779~1829年)は、伝統を破壊する「上から」のプロイセン改革を批判して、過去から未来への継承を担わない政府のもとでは経済の「国民的信用」もありえない。紙幣の発行は望ましいが、それが可能なのは伝統の生きているイギリスのような国でだ、と言った(「国民的信用について」1810年、『貨幣新論の試み』1816年)。

アダム・ミュラー
Wikipedia(ドイツ語版)より

 また先月、名古屋市で原田ゼミの合宿を行ない、名古屋大学経済学部の福澤直樹ゼミと合同ゼミをするとともに、三菱UFJ銀行名古屋ビルにある貨幣・浮世絵ミュージアム(旧貨幣資料館)を訪問した。

 ぼくが驚いたのは、江戸時代の藩札がじつに沢山あることだった。そこだけボードが二重にスライドできるようになっているので、なおさらそれを思わされたのか、いやそれだけじゃなく、実際に数多く出回っていたのだろう。

おびただしい藩札に見入る川嶋くん・井上くん(左から)

 藩が赤字財政補填のために発行した不換紙幣が藩札であり、原則は藩内でのみ通用したが、有力なものは近隣の藩でも使われた。幕末に濫発され価値が下落したと言われるが、濫発がどの程度であったかは議論があるようだ。藩政への信頼との関係はどうだったのだろうか。