ハンブルクの港――その2: 歴史と伝統

 9月に帰国して、あっという間に10月末。先日ハンブルク市役所から正式な転出証明書が航空便でわが家に届き、冒頭に市の正式名称「自由なハンザ都市ハンブルク」(Freie und Hansestadt Hamburg) があるのを見て「その1」の最後を思い起こし、もう一度ブログに向かう。

エコ用紙に白黒印刷が いかにもドイツの役所らしい

 ハンブルクでかつて荷物の積み下ろしを担っていた地域は、現在「ハーフェンシティー」と呼ばれている。

 コンテナが主流になった今その役割は希薄になったが、レンガ造りの建物を残しつつも現代建築が建てられて、伝統・超モダンの調和する不思議な空間が創り出されている。シュピーゲルハウス(去年7月12日の記事)やエルプフィルハーモニーはその典型である。

シュピーゲルハウスと古い町並み

 ハーフェンシティーには「大阪並木道」(Osakaallee)がある。プレートの下には小さい字で「1989年からハンブルクの友好都市である日本の港湾都市にちなんで」と書かれている。

大阪並木道のプレート

 でも、ここまで↓ドーンと「大阪」が出てくると、さすがに大阪府高槻市出身のぼくも気恥ずかしい^^;; 

ハーフェンシティーの “OSAKA”

 さて、ハーフェンシティーのなかでも とくに古いレンガ造りの倉庫が多数残っている地区は「倉庫街」(Speicherstadt) と呼ばれ、ユネスコ世界遺産に登録されている。

倉庫街(Speicherstadt)

 そこに倉庫街博物館という小さな博物館があり、ワンフロワーながらハンブルク港やハンンブルク市の歴史が分かりやすく展示されている。

 受付で「展示を写真撮影してサイトに出してもいいですか?」と尋ねたらOKだったので(美術館ではダメだったが^^;;)少し紹介したい。

倉庫街博物館 の入口

 13世紀から北部ドイツの貿易諸都市はハンザ同盟を結んで北欧につながるの商業の覇権を握っていたが、オランダの勢いが強くなるとともに弱体化して、17世紀後半には以前の同盟形式は消滅したけれど、リューベック、ブレーメンそしてとりわけハンブルクは19世紀でも旧ハンザ都市として伝統的な自治があった。

 この博物館に、19世紀のハンブルクに関する「1888年の関税併合」という説明がある。少し長いが、 最初の2段落を訳してみよう。

「1888年の関税併合」までの解説

 「19世紀には、政治的影響力がなくても主権のあった都市国家ハンブルクは、とくに独立性を声高に叫ぶことに尽力していた。様々な経済的利益を保証しえたのは、自由貿易だった。なので、ハンブルクは1834年に設立されたドイツ関税同盟に加盟しなかったし、1867年には北ドイツ連邦の一員でありながらも、それへの関税併合を承諾しなかった。そしてまた1871年のドイツ帝国の成立時においてさえ、ドイツの関税領域に編入されるかどうか自分たちで決める権限を手中に持ち続けた。
 ハンブルクがドイツの関税領域に編入されなかったので、その商人たちには特権が保証されていた。つまり、輸入商品を無関税でエルベ川を通して流入させ市街地で貯蔵・収蔵することができる、という特権である。とはいえ、この立ち位置をキープすることは、当時のドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクの政治的な目的と、とりわけその保護関税政策(1878年から)と ますます矛盾することになったので、市政府は1888年5月25日ついに関税併合契約に調印した。1888年10月25日、関税併合はなされた。」

少女のようなハンブルクと 威圧感のあるビスマルク

 ごっついビスマルク(右)が甘言葉で「関税施設」(Zollhaus) や「関税係官」(Zollbeamte) というプレゼントを差し出しているけれど、少女ハンブルク(左)はためらっていて、「すぐには なびきませんよ!」という気概を感じさせる。上には「エルベ川下流の関税併合」(Zollanschluss der Unterelbe) と書かれている。それに至るまでの空気を描いたカリカチュア。

 ハンブルクは19世紀の大半、1834年にできたドイツ関税同盟――通説では画期的な同盟――にも加入しなかったし、1871年に成立したドイツ帝国には加盟しても関税では17年間も独立性を保ち続けた! 本当に長い間 自主・独立にこだわって粘った。1888年以降もかなりの自治権をもっていたのではないか。

展示されている19世紀末の 分銅式の秤

 その独立性の原動力はなんだったのか、それを可能にしたのは? それを支えていた思想は?これらを探究するなかで、時代は異なるが、現在 中国が香港と台湾を併合して・しようとしている状況で なおそれらがそれなりに独立性を保ちうる条件が――あるいはその条件が欠けていることが――分かるかもしれない。

 この問題意識は『19世紀前半のドイツ経済思想』(p. 263, 290) で書いたが、この小さな博物館での説明で なお一層 探究心がかきたてられた。