水田洋先生の思い出

 水田洋先生(1919~2023年)が亡くなって早や1か月たった。複数の新聞でこの「アダム・スミス研究の第一人者」の訃報が、2月3日を命日として報じられたが、親しい方からは2月4日の未明とも聞いている。いずれにせよ享年103歳、大往生である。二・二六事件のとき首相官邸あたりのその兵士らを旧制中学の生徒として通学路で見たのだから、存在そのものが歴史であった(水田洋『ある精神の軌跡』東洋経済新報社、1978年、p. 35-36参照)。

名古屋大学ホームページ「水田洋名誉教授ご逝去の報に接し」から

 ぼくは、1980年春に福島大学の卒業と同時に名古屋大学大学院に進学し、水田先生の院生となった。後期課程の1年めが終わったところで先生は定年退職されたから、形式的な指導教官としては3年間だったが、そのあいだのご指導のみならず、その後 折に触れてのやり取りや、もちろん先生の作品からも、とても多くを学んだ。

 スミスで有名な水田先生だがドイツ・ロマン主義も強く意識されていて、それがぼくのドイツ・ロマン主義研究のモチベーションのひとつだった。伊坂・原田編『ドイツ・ロマン主義研究』(御茶の水書房、2007年)にバーダー論を書いてくださったのは、嬉しかった。その終章を再録した『19世紀前半のドイツ経済思想――ドイツ古典派、ロマン主義、フリードリヒ・リスト』(ミネルヴァ書房、2020年)は100歳の水田先生に捧げた(p. vii)。

100歳記念のパーティー(2019年9月8日)
最前列は中央に水田洋・珠枝ご夫妻、向かって左に宮本憲一、右側には坂本達哉ほか。
前から2列めは向かって左側に篠原久、生越利昭、梅田百合香、山田園子ほか、
右側に大学院水田ゼミの先輩の太田仁樹、安川悦子ほか。
最後列に大学院の先輩の岸川富士夫、寺田光雄、安藤隆穂ほか。
後ろから2列めは向かって右側に水田未知(お嬢さん)、八木紀一郎、大塚雄太ほか、中央に原田。
(以上 敬称略)

 水田先生についてはたくさんの思い出があるが、ここでは、ありがたかったと同時に(典型的な!)傍若無人な一件についてお伝えしたい。2001年12月に前任校で経済学史学会関西部会を開いたときのこと。

 大学が小高いところにあり出席者が少なくならないか不安だったから、仲間内で「客寄せパンダがほしい」と語り合った。この言い方は水田先生流の口の悪さがうつったのかもしれないが、ご本人には「先生に来ていただければ盛り上がると思いますので、ぜひご報告をお願いします!」と丁重にお願いした。80も超え 学士院会員でもあられた先生が、報告を引き受けてくださった。お陰で多くの方々に来ていただけて、本当にありがたかった。

 報告タイトルは「『国富論』を監訳して」だったが、先生は、報告のなかでスミス『国富論』の最初の日本語訳を『冨國論』として出した石川暎作(1858~87年)について語られ、福島県の会津にある石川の実家「栄川酒造」が それにちなんだ銘柄の日本酒「冨國論」を出していると言われた。そして、持参されたそのお酒を紙コップで出席者にふるまわれた。学会報告の最中に報告者が酒をふるまったのは、ぼくはこれ以前も以後も見たことがない! 

金色の箱に入った大吟醸『冨國論』

 酒瓶とその箱には「明治十五年四月」と書かれているが、水田先生があとでその報告を敷衍してまとめ直したと思われる「富国論という酒――アダム・スミス翻訳史」(『日本学士院紀要』第64巻第2号、2009年、p. 90)では、大内兵衛と高橋誠一郎の言「印刷の最初は明治一六年」が示されている。

 大吟醸「冨國論」の写真がスッと出てくるのは、じつは水田先生ご逝去の少し前に山尾忠弘さん(慶応義塾大学)が自宅に寄られて、数年前に人からもらっていたこのお酒を、その思い出を語りつつ一緒に味わい、かつ撮影したからである。

マスクを付けて山尾さんと。彼による自撮り。

 慶応義塾で学んだ石川暎作の遠い後輩で かつお父様が会津西部のご出身であるこの若手のホープを励ますことが、偶然 水田先生を送り出す頃と重なっていたことに、不思議な縁を思った。彼はスミス後のイギリス自由主義の社会・経済思想(とりわけ J.S.ミル)を研究している。